ピッ
音が鳴る。

わたしのせいではない。
でも、わたしが鳴らしていることになってる。

それで、だいたい、ちょうどいい。

この世界では、
そういう“擬似責任”が、社会を、ぬるく、巧妙に、回してる。

たとえば、
「温めますか?」って訊いたとき、
客がこちらを見ずに、ただ首を振るだけなら、
ああこの人は、この社会にきちんと適応しているな、と思う。

わたしは、
それを悪いとも思わないし、
正しいとも思わない。

ただ、うまくやってるなあ、と。
おもうだけ。

そういう構造の中で、
黙って動くものにだけ、
少しずつ与えられていく役割というのがある。

たいていそれは、
もうすこしマシな機械に代替されていくための通過点だけど。

ピッ。

この音に、
わたしはもう何も反応しない。

それは無関心というよりも、
手を伸ばさないという選択のかたちに近い。

自分のなかで、
言葉にならない速度で動いているものを、
誰かに話したいとは思わない。

話したところで、
どこまで話すべきかがわからないし、
どこから話していないかも、わからない。

それなら最初から、
話さないほうがいい。

ピッ。

バーコードを読む音は、
だんだんと呼吸のように聞こえてくる。

もともと、わたしの呼吸は、
外から見えないようにできている。

見せる必要がない。

誰かに安心してもらうために、
生きているふりをする必要は、ない。

ほんとうに怖いものは、
声に出すと弱くなる。
かたちにすると嘘になる。

だから、わたしは黙ってる。

黙っているときだけ、
わたしの中身は、くずれない。

わたしの中身?
そんなのあったっけ。
中身を考える。

中身を考えると、壊れていく音がする。

中身を考えると、わたしはわたしを思い出してしまう。

わたしの中身は、
たぶん、いつも少しずつ抜けている。
それでも形が残っているのは、
皮膚がうまく嘘をついてくれているから。

沈黙は、皮膚のようなものだ。
押せば弾くし、裂ければ血が出る。
けれど、沈黙がなければ、
この中身はどこにも留まれない。

 


ピッ。

わたしはいつからか、ずっと同じ悩みを抱えてる。
それは、これだと断言できる一つの大きな悩みではなくて、
無数の、小さな突っかかりが寄り集まった、ひとつの集合体に近い。

ピッ。

その悩みは日によって表情を変える、
ときに牙をむいて、わたしに襲いかかってくる。

きょうはどんな仕方で、わたしを襲うのか、
わたしはいつも不安に思う。
けど不安に思っても、仕方がない。安心には、ほど遠いから。

わたしは震えながら、
身体の外側に、誰にも見えない膜を張る。
薄くて、頼りなくて、それでも必死に。

ドリンク棚の裏側で、ドリンクを補充しているとき、ガラガラ、ガシャンッて音のあいまの、
わずかな隙間から覗く世界がある。

その、細く切れた光の筋の向こうに見える世界が、
わたしの目に映る、現実の本体、

狭くて、ひっそりしていて、
いつも、こちらを見返さないまま、ただそこにある。
その炭酸飲料とミネラルウォーターの隙間から、わたしはいつも世界に視線を向ける。

いつも同じ風景、暗闇を照らす街灯と、
定期的に更新される、
アイドルとサーカスの公演予約のPOS。
ガラスの内側から外向けに貼られた、
特別指名手配犯のチラシ。

湿気を吸って波打つ紙。
角は浮き、テープが黄ばんでいて、
外を歩く誰かに向けて、
“見つけてください”と提示された、
指名手配犯が悪そうな顔して睨んでる。

正義の顔がそれを貼ったんだから、
悪はいつも、
表向きに整ってるにきまってる。

その「正義の顔」が、
わたしにまでは貼られない──とは、言いきれない。

わたしがそこに並ぶ可能性だって、
アイドルか、サーカスか、
はたまた、人殺し犯か。

どれも、
ほんとうは、
ゼロじゃない。

ピッ。

だけど、むかしは、悪って、
もっと背徳的な香りがすると思ってた。
硝煙とか、破滅の匂いとか、
──たとえば、嘘をついた腹の虫が
自分の声を揚げ油に変えて、
レジ横のホッターから湯気になってくる。
そういう、ほら、チキンの、
安い背徳の匂い?

そういうものだと、思ってた。

でもね、実際は
もっと無臭で、
もっと上品で、
もっと、日常的。

たとえば、
時間どおりに出勤して、
規則どおりに振る舞って、
ため息まじりに「すみません」て言う。

誰に対しての謝罪かもわからないまま。

そういう手が、
気づかないうちに、
だれかの首を、
ゆるやかに、でも確実に、
締めていたりする。

殺さない程度にね。それはいつも、
──神さまが眉をひそめるような、
罪じゃないのよ。
もっと、なんていうか、
火炙りでは無くて、
電子レンジみたいに均一な、
ぬるい加担。

悪魔的な悪よりもっと、
陳腐で、平坦で、
手続きに似た悪。

そういうの。

そういうのが、
一番よく回る。

ヴィランじゃないの。
マントも牙もないの。
ただ、
考えることをやめて、
服従という名の制服を着た、
薄味の悪。

思考をやめ、判断を他人に預け、
外の規範にすがりついて動く──
そんな、つまらない悪。

でも、つまらないからこそ、
誰のなかにも入り込めるもの。

わたしのなかにもそんな凡庸的な悪が
いくつも存在してる。

カリスマでもなく、テロリストでもない、
思考を停止した、
システムに従順な手。

正義を名乗らないぶん、
誰にも疑われない悪。

わたしたちのこの、
ぬるくて、
陳腐で、
よく回る悪を、
誰がどうやって“倒して”くれるの。

わたしが倒すの?それとも、
正義?デモ?改革?戦争?テロ?
そんな派手なやつ、
この悪にはぜんぶ、通用しない。

自己啓発本?どくたー?セラピー?カウンセラー?

だってこれは、
ほら、
あなたのとなりの人の声と、
わたしの手のしぐさでできているでしょ。

だれにも届かないように、
設計された名を与える機械が、
だれにも救われないように設計された
わたしという人間を、
とても静かに、量産しているの。
潰しても、潰しても。

ピッ。

「温めますか?」
──そんなの、もう、勝手に温めてください。

「お箸いりますか?」
──適当に、みつけてください。

「袋入りますか?」
──どうぞ、ご自分で包んでください。

そんなことより、だれかわたしを此処から、凡庸的な悪から、
ひろいあげてください。

そんなこと言っても、
また、ためいきが出る。

わたしの出す、このためいきは、
言語よりわたしを理解している。

言葉はまだ迷っている。
でも、ためいきはもう、知っている。

なによりさきに、ためいきだけが、わたしをわたしとして、
呼びあててくる。

それが自分の口から出ているのか、
店内のスピーカーから流れているのかすら、
もう、考えるのも、面倒で。

ねえ、
このポテトチップの袋、持ったことある?
からっぽみたいに軽くて、
でも胸の奥を、押しつぶすくらいに重くて──
…まるで地球の重力加速度がぶっ壊れたみたいに、
わたしのまわりの一切の感触が、
不均一に渦を巻いているように感じられるの。

わかる?

ピッ。

空白に補充された商品棚の前で、
ふいに思うの。
このばしょが、どこか
緊急着陸したすぺーすしゃとるのなかみたいにおもえて、
ふいに気づくの、
わたしの、なかま、いたっけ?
ずっと、ひとりだっけ?
なかま。
いたような。いなかった?
わたしのなかま、だれか、
いるのなら、
もし、いたなら。

どうか、はやく見つけてください。
ここにいます。
さびしい。と口にだすのが怖いから、
ずっとずっと、ここで、待っているのに。

ねえ、
わたしはね、

金をもらうために働いて
金を返すために働いて
学ぶふりをして
眠れないまま
生きたふりをして
死にきれなくて
それでも、まだここに
いさせられているのに。

ぜんぶ、持ってなかった。

だけど──
なかまだと信じてた人たちは、
ぜんぶ持ってた。
それで、
「がんばれ」って、言った。

ぜんぶ あって
それでも
「たいへんだった」とか
言うな
そういうの いちばん
重い

笑い話にして生きてる人間に
殺されるんだよ “ふつう”の顔で
笑ってる おまえらに

やさしい顔で
毒を垂らす おまえらに

あんたは
なにひとつ
傷をもっていない
だから
黙っていられる

でも
この世界では
無傷ってことじたいが
特権なんだ

黙っている者の清潔さに
わたしたちは
毎日 
押しつぶされてる

あんたたちは はじまった
わたしは はじまらない側に いた

名もない
起点もない
履く靴も 地図も 水も なかった
なかった
なかったって
何度も言わなきゃならないほど
“なかった”ということが
あんたには わからないらしい

あんたは どうだ
はじまりに
なにげなく 立っていた んだろう
最初から
配られてた
地面も
靴も
拍手も
全部
「それが人生」みたいな顔で

でもな
わたしは
走る前に
崩れたんだよ
土に喰われた
くるぶしの下で
骨が折れた

それを見て
あんたは言った
「やれば できるさ」
教師も言った
「みんな 平等なんだよ」
口をそろえて、

なあ
あんたのはじまりと
わたしのはじまりが
同じだって 本気で 思ってんのか
なあ

こっちは
はじまりにも 届かなかった
はじまりの前の 無数の不在を
喉に詰めたまま
走れって 言われたんだよ

走れ
走れ
走れ
って

そのたび 
音もなく
わたしのなかの骨が
折れていく

あんたのはじまり、は
起点だった
わたしのはじまり、は
証明だった
この世界が
最初から
まちがっていたっていう
証明だった

タラララン、タラン。
間の抜けた入店音が鳴った。

だれか、やってきた。
わたしのなかま、かと思った。
でも、細い隙間から覗くと、
ああ、やっぱり、客だった。

そうやって、わたしはいつも外部を確かめる。
炭酸飲料とミネラルウォーターの隙間で、
しずかに揺れている、透明なものを見つめながら。

安全なやつか一応確かめる。
それは、わたしのためじゃない。
このすぺーすしゃとるのためだ。

なぜって、
わたしはもう、ずっと前から、
ここにいるだけの重りみたいなもので、
この船の針路や速度には、たいして影響しないから。

それでも、
誰かが、わたしのことを見ていて、
「まだ大丈夫だろうか」と不安になるのなら、
せめてその不安を減らすために、確認だけはしておくの。

わたしが無事かどうかなんて、
この船の航行にとっては、
ほんの少しのノイズでしかないけど、
無視できるほどの無でもない。
それは、
さすがに、せめてもの願いに近い。
だから今日も、
安全なやつか、一応、確かめる。

ピッ。
レジが鳴るたびに、
わたしの内部で何かが少しだけ、
沈黙に置き換わっていく。

だれも気づかない。
わたしも、気づかないふりをする。

気づかれないものは、消えていく。
消えていくものは、意味を持たない。

そう決めたのは、誰だろう。
わたしじゃない。

でも、わたしも、
それに従っているふりをしている。

レジに立つときの手の角度や、
袋詰めの速さ、
レシートの向き、
そういったもののすべてが、
わたしを「ちゃんとした存在」として成立させている。

でも、ほんとうは、
どこにも所属していない。

わたしは、「ここにいてはいけない」種類の人間だ。ってどこかで、ちゃんと思ってる。

だけど、まだ、だれにもバレていない。
気づいていても、気づいていないふりをしているのかもしれない、
でも、それが、たぶん、
この社会のやさしさであり、
この社会の冷たさでもあるんじゃないかな。

だから、
ピッ。

音が一定であることに、
わたしはときどき、救われている気がする。

乱されないリズム。
期待されない発話。
そこに、「いるだけでいい」時間がある。

だれも、わたしに話しかけない。
わたしも、話しかけない。

それは、沈黙ではなく、
合意された距離。

その合意は、名前を持たない。

でも、コンビニという構造のなかでは、
すべてが、
だいたいそれで足りてしまう。

わたしが何者であるかを問われないことは、
たいていの場合、救いだ。

でも──
ときどき、そのことが、
ひどくさびしくなることがある。

たとえば、
自分の声が、自分の顔から剥がれていくとき。

「いらっしゃいませ」
「ありがとうございました」

その言葉が、わたしの内側を何も通らず、
ただ、外に滑っていくだけの日は、
すこしだけ、寒い。

でも、それもすぐ慣れる。

寒さに慣れるのと、
誰にも見られないことに慣れるのは、
よく似ている。

どちらも、皮膚の奥で、
すこしだけ呼吸が浅くなるだけだ。

ピッ。

炭酸飲料とミネラルウォーターの隙間から確認して、

「……よし。大丈夫。」

そう小さく息を吐いて、冷蔵室の扉を押し開けるとき。

ぶわり、と空気が変わるの。

冷蔵庫の内側に張りついていた冷気が、じわじわと肌を離れていき、外の空気がぬるく絡みついてくる。

背中にうっすら汗が浮かぶのがわかる。室温はたしかに人の暮らしに調整されているはずなのに、冷蔵庫の静けさに長くいたせいで、世界が一気にゆるんでしまったように感じる。

足元には、床掃除のあとがまだ少し残ってる、わずかに湿った匂い。客の靴が踏んだ土ぼこりと、売れ残ったフライの油が、店内の空気にまざってる。

客はカップ麺を物色している。

レジの前にスタンバイすると同時に
客がカップ麺を差し出した、
いらっしゃいませ。
けれど、
商品を差し出すその手が、わずかに上から見下ろしている。
目も合わない。
目が合うとしても、それはわたしという人間を見るのではなく、「レジ係」という役割を確認しているだけ。

ピッ。

さいきんはその「レジ係」というわたしに与えられた役割さえ、自動レジ化により、
なくしてきている。

わたしはただ、定型的な発声とピッとバーコードリーダーを商品に押し当てる係り、あとは見守り。

「レジ係」という語に封じられていた業務たちは、
レジ打ちという主要な駆動を自動レジに奪われた。

かつての主人公は細片となって散らばって、いまだ新しい肩書きを得られぬまま、
LED照明の無機質な光の下を彷徨っている気がする。

客とかつて「レジ係」だったわたしとのあいだにできた変な間、ズレたやりとり。
それが妙に新鮮にもおもえる、それが、どうしようもなくおかしい。
あれはたぶん、お互いが
「あなた、まだいるんですね」と思ってる。
わたしはまだ、いる。
向こうも、まだ、客。
でも、どちらも、もうすっかりズレている。
少しだけ、滑稽で、少しだけ、悲しい。
けれどそれがまた、
どうしようもなく、にんげん、という感じがする。


『愚かですね。』、

客がぼそっともらした、聞き取れる人を選んでるみたいな細い声で、

たぶん、独り言のつもりだったのだろう。
あるいは、独り言のふりをした、
ごく軽い、無責任な射撃。
当たっても当たらなくても、どうでもいいような、
でも、もし当たれば、ちょっとだけ
違和感を抱く種類の言葉。

わたしは、聞こえないふりをした。
それが正しい反応だったのかどうかはわからないけど、
ほかに思いつかなかった。

聞き取れる人、か。
そういう人間に、
わたしは見えていたのだろうか。

それとも、聞き取れる人のふりをして
ずっと生きてきたわたしの、
うす汚れた外皮だけが、
まちがって反射していただけなのかもしれない。

でも、ほんとうは──
わたしだって、ずっと、
「選ばれるかもしれない誰か」を
待っていたのだ。
毎晩、あの冷蔵棚の隙間で。

愚かですね。

その言葉は、
まるでわたしの、
その小さな、ずっと昔からの祈りを、
嘲笑するような音だった。

目の前の客は、まるで何日も洗っていないような、
油で重たくなった髪をしていた。
ぺたんと、頭蓋に貼りついている。
それがまた、妙に誠実そうに見えるのが、なんだか哀しかった。

顎まわりには、不器用に伸びた無精ひげ。
それが彼にとって「怠惰」なのか「抵抗」なのか、わたしには、もうわからない。
でも、どちらにしても──おそらく、どうでもいいことだったのだろう。

くたびれた青いポロシャツ。
胸元には、食べこぼしたようなシミがある。
そして、なぜだかきちんと、社員証のようなものを首から下げていた。
会社名が印字されたホルダーの隅に、
白いボールペンが一本、刺さっていた。

ペンを落とさないように、
たぶん本人なりに、注意深く挿したのだ。
それがどうにも哀れで、
どうにも尊かった。

彼は、財布の中を覗き込みながら、
小銭を探していた。
革の財布。やけに厚い。
レジ前のトレイの上で、ごそごそと、指を這わせている。
なかなか、出てこない。
たかが130円なのに、
彼はひどく時間をかけていた。

その時間が、
いまの彼の人生のすべてを象徴しているようで、
わたしはどうしても目を逸らせなかった。

わたしは黙っていた。
ただ、レジの向こうで、袋を用意しながら、
その姿を見ていた。

滑稽で、哀れで、
だけど、どこか──
他人事ではなかった。

ああ、にんげんって、
こんなふうにして、
今日を終えるんだな、と、思った。

わたしは、待ってるあいだ、
愚かですね──と、答えた。

ほんとうに言うつもりはなかった。
でも、声が、出てしまった。
あれは、わたしの声だった。
だれか別の人間が、わたしの内側でつぶやいたような、
ひどく乾いて、ひどくやわらかい、声。

彼は、ちょっとだけ顔をあげて、
それから、また財布の中を覗きこんだ。

指先は相変わらず不器用だったけれど、
さっきよりも、ほんの少し、
迷いがないように見えた。

カラン……と、
ようやく小銭がレジの投入口に収まる音がした。

「はい。」

そう言って、彼は、
ほんの少しだけ、目を合わせた。

微笑んだような気がした。
でも、それがほんとうに笑顔だったのか、
わたしの錯覚だったのか、
もう、どうでもよくなっていた。

その「はい」には、
なんの意味もなかったかもしれないし、
すべての意味が詰まっていたのかもしれなかった。

彼は立ち去った。
わたしは袋を片づけ、
レジの表示をゼロに戻す。

立ち去った彼の背中に向けて、わたしはいう。

わたしのせいだって、ちゃんとわかってますよ。
わたしのせいって顔、得意ですから。
それを見て「えらいね」って言うあんたの顔まで、
わたし、ちゃんと演じてますから。

でもさ、ほんとうは、
その演技を知ってて止めないわたしが
いちばん、
たちが悪いこと、知ってます、

わたしが わたしを 責めるふりをして
わたしが わたしに 責任を盛る
わたしを 遠くで 見てる わたしが
ほんとうの ……ほんとうの
崩れてる やつってことも。

わたしもかれも、

ほんとうは、いなくてもいいってことも。
ほんとうは、もうずっと、
いなかったのかもしれないことも。

だって、いつも、わたしという輪郭が、生まれるまえの場所で、
なにかに触れそこねた、わたしがいるだけ。

欲望の対象が欠けていることさえ、
自覚できないまま、
それを模倣しつづける身体が、あるだけ。

満たされることを想定した構造だけが、
先にできてしまった、片足があるだけ。

空気に、かたちを求めつづける手が、
皮膚の奥で、静かに動いているだけ。

けれど、どうしても、ここを離れられない。
──離れられない?

そんなことはないと、知っていても、
わたしは、ここにしか、いられそうにない。


バーコードのピッ、という音が、自分の心臓の鼓動みたいに思える。
「ありがとうございました」という言葉が、耳の奥で遠く反響して、何かをつなぎとめているように感じる。

たぶん私は、レジの機械よりも無駄で、遅くて、不正確だ。

それでも、機械にできないことが、ひとつだけあるのだろうか。

それを考えるだけむだで、

それが何なのか、まだわからないまま、ピッという音を鳴らし続ける。

バーコードを読み取る音が、今日も店内に響く。
ピッ、ピッ。
それは心電図みたいな音で、時々、自分自身に値札を貼られているような気がする。

わたしの額にはきっと、見えないバーコードがついていて、誰もが無意識にそこをスキャンしている。

安い労働だから、軽く扱ってもいい。
反撃してこないだろうから、苛立ちをぶつけてもいい。

その視線が、冷たく、無言のまま、
わたしの顔や、胸や、手元を、這う。

どうぞ、お構いなく。

けれど、いまはもう、
ここでどんな態度を取ったって──
この客が、もう一度ここに来る保証なんてない。

この客に限らず、
世界がこちらを振り向くことなんて、ない。

万に一つ、あったとして。

……わたしは、それに、
なんと答えれば、いいのか。

ひとの形を模倣してしまう、
空虚な触れかたの、わたしが。

触れてもいいはずのない世界に、
間違って、手を伸ばしてしまったとして。

わたしの指先は、
何を、壊すだろう
それを考えると、途端に恐ろしくなる。

わたしは、
いまここに立っているけど、
どこかの誰かに許された記憶が、ひとつもない。

わたしがここにいることが、
たえず、間違いのような気がしている。

空気の使い方を間違えている気がするし、
光の反射が、わたしの輪郭を拒絶しているように思える、
ドアの開閉音が、「出ていけ」と言っているように聞こえる日もある。

わたしは、
誰のなかにも含まれていない気がする。
どの言葉にも、
どの役割にも、
収まる場所を持っていない。

存在そのものが、違和感なのだ。
そういう違和感を、
誰にも悟られないまま、
毎日、ここで立ち続けている。

「大丈夫です」
「こちらでよろしいですか?」
「温めますか?」

わたしがここにいることは、
たぶん、世界のバグなのだ。

でも、
もしもそれを“世界のほうが間違えている”って
言ってくれる誰かがいるなら、
わたしは、それを信じてみたい。

だから、どうか。
迎えにきてほしい。

炭酸飲料とミネラルウォーターの、
あいだにいる。

その細い隙間に、
わたしはひっそり、隠れている。

ちゃんと見つけてくれないと、
見逃される自信があるくらい、
わたしは世界に、溶けすぎてしまったから。

お願いだから、
声ではなく、
目でもなく、
ただ、気配で、探してほしい。

わたしは、
いる。

いて、
いいのかどうかを、ずっと、
確かめている。

わたしが一度限りの相手であることが、
彼らを、強くするのだ。と思う。
世界を、強くするのだ。と思う。

人は、
責任が拡散すればするほど、
残酷になる。

だれかが誰でもよくなったとき、
だれかに向ける刃は、
重さを失っていく。

名前のない相手を、
何度傷つけても、かまわない世界。

それはとても、合理的で、
とても、うつくしい構造で、
そして──
わたしが、いちばん馴染めなかった場所でもある。

わたしは、そこに含まれていなかった。

わたしは、
触れてもよい対象として、
まだ認識されていない。

見てもいいか、
話しかけてもいいか、
叱っても、罵っても、かまわない存在かどうかすら、
世界はまだ判断していない。

そんな不定形のわたしが、
レジに立ち、音を鳴らすたび、
この構造が、カチ、と一つ噛み合う音がする。

それが、怖い。

世界の部品として、
自分がひとつ、
差し込まれてしまう音がする。

けれど、
そこに違和感があることを、
誰も気づかない。

存在そのものが、違和感でできているわたしを、
誰も、見分けられない。

それでも、
彼らの視線の奥に、
ほんの少しでも、わたしと同じ温度を──
探してしまう。

無駄だと、わかっていても。
わたしが、避けていくほどに、
世界もまた、
わたしの存在を、
静かに否定していく。

わたしが、
世界を認めて、
その一部として、生きていかない限り、

世界もまた、
わたしを“ここにいていい”とは言わない。

わたしが、この場所を拒む限り、
この場所は、
わたしを解放してくれないの。

出ていけないの。

鍵なんて、最初からなかった。
扉なんて、閉ざされていなかった。
ただ──
わたしがまだ、
“ここである”ことをやめていないだけ。

逃げないのではなく、
逃げられないのではなく、
わたしは、まだ、
世界の端に、残っていたいのかもしれない。

誰にも気づかれないまま、
それでも、
誰かが気づくかもしれないという、その予感の中で。

いちばん、つらいのは、わたしがもうそれに慣れつつあることだ。

いつの間にか、この胸の痛みすら、ルーティンの一部になってしまいそうなことだ。

だから、まだ祈るように思う。

「どうか、誰かひとりくらい、わたしを人間だと感じてくれますように」

レジの奥の鏡に映ったわたしの顔は、薄く笑っている。

でも、その笑顔の下で、ずっと、小さな棘が刺さったまま、抜けないでいる。
ピッ
ピッ

からだがひらく。
からだが閉じる。

ひとつの切れ目、無数のつなぎ目。

ピッ。わたしがひとつ。
ピッ。わたしがふたつ。

バーコードはただの黒い縞ではない。
それは呼吸する地層。
欲望の配列です。

ピッ。わたしがみっつ。
ピッ。わたしがよっつ。

ピッピッピッ、と鳴るたびに、神経がチューブに変わり、血管が回路になる。

ピッ。わたしがいつつ。
ピッ。わたしがむっつ。

客は商品を差し出し、商品はわたしを差し出し、わたしは機械を差し出し、機械はまた別の客を吐き出す。

ピッわたしがななつ。
ピッピッ
ピッ
わたしが、やっつ。
それは、言葉の代わりに動く。
顔の代わりに動く。

ピッ。わたしがここのつ。
ピッ。わたしが、とお。

からだの中の数が尽きても、まだ数える。


縞模様の地層は、さらに深く、さらに深く沈んでいく。

ピッ。呼吸する欲望が、胸の奥を這う。
ピッ。静脈の奥で、黒いコードが脈打つ。

ひとつ、ふたつ、みっつ、と数えるたびに、わたしの輪郭は剥がれ落ち、
ピッ、ピッ、と鳴るたびに、別のわたしが増殖する。

わたしは誰でもないが、わたしは無数のひとである。

ピッ。

愛はない。

ピッ。

愛のように確かだ。

ピッ。

ピッ。

その音が、わたしのすべてを織り合わせ、またほどいていく。

ピッ。わたしがひとつ、愛する。

ピッ。わたしがふたつ、愛されたい。

ピッピッピッ。わたしがみっつ、よっつ、むっつ、愛にひき裂かれる。

バーコードは黒い縞ではない。

それは、愛の爪痕。

欲望の傷口だ。

ピッ。愛している。
ピッ。愛している。
ピッ。愛している。

まだ足りない。

わたしの血管が回路になり、神経がチューブになり、全身の毛穴が開いて、
愛せるものならなんでも愛したい。

客の額を撫でながら、ピッ。
その耳に噛みつきながら、ピッ。
その目玉を舐めながら、ピッ。

もう数えきれない。

ひとり、ふたり、みっつ、よっつ、むっつ、ななつ、やっつ、ここのつ、とお。

まだ足りない。

わたしはレジの上に這い出し、
バーコードリーダーを握りしめ、
この世のすべての顔にピッ、ピッ、ピッ、ピッ、と愛を打ち込む。

無差別に、過剰に、滑稽に、破裂するほど愛したい。

ピッ。おまえの血を愛する。
ピッ。おまえの骨を愛する。
ピッ。おまえの沈黙を愛する。

このレジに並んだ無数の他人を、ぜんぶまとめて、愛する。

ピッ。

ピッ。

ピッ。

まだ足りない。

まだ足りない。

この音が止まるまで、わたしは愛しつづける。

ピッ、ピッ、ピッ、ピッ、ピッ、ピッ、ピッ、ピッ、ピッ、ピッ、

すべてを、愛の値札で、引き裂きながら。
機械化でなくなるのは、仕事よりも、こころ。

仕事はまだ残る。
仕事はまだ回る。
仕事はまだ効率化され、置き換えられ、別の誰かがやる。

でも、こころは戻らない。

無音で剥がれ落ち、
いつかカサカサの薄い膜になり、
「わたし」をつつむ皮の内側で、
壊れる。

機械は代わりにやってくれる。
レジを打つ。
鍵を開ける。
商品を数える。

でも、

微笑むこころは、もうない。
感じるこころは、もうない。
愛するこころは、もうない。

機械化するたびに、
仕事が一つ減り、
こころが一つ死ぬ。

わたしひとりのこころが死んでも、
代替可能な労働者は、たくさんいる。

レジは止まらない。
商品は流れる。
客は笑う。

わたしがいなくなっても、
別の誰かが「いらっしゃいませ」を言うだろう。

別の誰かが「ありがとうございました」を言うだろう。

こころの抜け殻のまま、同じように笑い、首を下げ、袋に詰めるだろう。

だから、怖いのは、わたしの死ではない。

怖いのは、わたしのこころが死んだことさえ、
誰にも気づかれず、
そのまま次のシフトに埋もれていくことだ。

ピッ

ピッ

音だけが残り、
わたしはすでに、いない。
だから、そうなる前に、
考えを捨てなきゃならない。

考えてはいけない。

考えると、痛むから。

考えると、見えてしまうから。

考えると、わたしのこころが死んでいく音が聞こえてしまうから。

考えを放棄して、

ただ、ピッ、ピッ、と動くの。

ピッ。
客の額に。

ピッ。
商品に。

ピッ。
わたしの胸に。

ピッ。
誰のものでもない声で。

ピッ。

ピッ。

そうしていれば、
わたしの代わりはたくさんいるから、
きっと、街は止まらない。

そうしていれば、
こころが死んだことも、誰にも気づかれない。

そうしていれば、
だれも、泣かなくてすむ。

ピッ。

ピッ。

考えないで。

ピッ。

考えないで。

ピッ。

わたしは、もう、
ただのリズムになる。

ピッ。

ピッ。

ピッ。





愛の形を模倣してしまう、空虚な触れかた
「ほんとうに何も宿っていないのに、“愛っぽい”形に反応してしまうこと」
「無機質すぎるからこそ、そこに“熱”を感じてしまう錯覚」


どれも凡庸的な悪、それは
根源的、悪魔的な悪より陳腐なつくりの表面的な悪
思考、判断の停止、外的規範に服従し、
した陳腐な悪であるからこそ、
表層的な悪だからこそ、
社会に蔓延し、世界を荒廃させる可能性がある


ピッという音が鳴るたび、世界がわたしを肯定するふりをする。
そのふりに、わたしもまた加担してしまう。
わたしは、世界に従うことでしか、世界から存在を許されない。

機械はわたしを代替するけれど、
わたしの空洞までは代替してくれない。
だから、わたしの不在は「不在」でさえなく、ただの「未入力」になる。

だれにも届かないように設計された名を与える機械は
だれにも救われないように設計された人間を、とても静かに、量産している。

レジのボタンを押すたび、指先の感覚が少しずつ抜け落ちる気がする。

でも、最近はもう、
ポテトチップの袋が、
空腹をからかうみたいに軽くて、
胸の奥を押しつぶすみたいに重くて、
…地球の重力加速度がぶっ壊れたみたいに、
わたしのまわりの一切の感触が、
不均一に渦を巻いているように感じられる。

ピッ。