たとえば、
冬の夜、直子とワタナベを乗せたタクシーのラジオを消したのが、もし自分だったなら、あれは気を遣ったわけではなくて、空気に反射した沈黙が耳にひっかかったから─

あるいは、
ライ麦畑で道に迷った少年ホールデンが、うしろの座席で小さく震えていたなら、ミラー越しに目を合わせるふりをして、ほんの少しだけゆっくり曲がってやったかもしれない。


都会の夜景が雨粒に溶けるように、
ばななの『キッチン』で、言葉も交わさずに座るふたりのあいだに、音楽だけが優しく流れるあの時間。
わたしが運転手なら、ラジオの音量をほんの少しだけ、下げたかもしれない。邪魔にならない程度に。
「誰も壊さないように」と願う気持ちは、誰のものだろう。

そして、
「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」そのあとに女を乗せたタクシー。
わたしその女が、何を背負っているかなんて、にはわからない。けれど、雪のなかで消えていく後ろ姿だけが、いつまでも視界に残ることがある。

太宰の『人間失格』で、男がぐったりと身体を座席のシートに沈めたとき──
その背中の沈み込みから、「このひとはもう、立ち上がる力がないんじゃないか」と、シート越しに感じ取ったかもしれない。

『斜陽』の母が見た、タクシーの窓の外の「よそよそしい街」。
もしわたしが、それに気づいたなら、「街のせいにしてもいいですよ」とでも言ったろうか。

わたしはそんなふうに、
誰かの文学的な絶望や、終わらない旅や、ひとときの沈黙のとなりに、運転席があったかもしれないと思っていた。

しゃべらないふたりが、
らじおの音のかわりに、
沈黙を、
たしかめるようにすわっていたり、

夜のまちのはしっこで
「さびしい、死にたい」と、

ひとりのこぶしが震えてたり、

やわらかい音楽のなかに
雨の光が、とけていったり。

きっと、
それは、
なにかが ほどけて
なにかが ほどけきらずに
つめたい皮膚のうえに
うっすらと 残ってしまったような
ひとの よるの ぬけがらのようなもの。

もし そのハンドルを
わたしが 握っていたら?

どんな顔をして、
その「話さない」ふたりを
うしろに乗せていたろう。

どんな声を聞かずに、
その「言わない」ことばたちを
沈黙ごと、運んでいたろう。

うしろの席にあったのは、
すくなくとも、
感情の なれの果てで。
その、ほんのすこしの、
すれ違いの、名もなき、気配だった。

だから、
わたしはそれに、
なってみたかった。

乗せるものじゃなく、
運ばれるものでもなく、
あいだに立つ、みたいなもの。

沈黙と沈黙の、
そのあいだに、
そっといる、みたいなもの。

ひとにも、
まちにも、
記憶にも、
きづかれないまま、そっと

でも、
どこかで必要とされているかもしれない
──そういう、なにかになってみたいと思ったことも、なんどかあった。

憧れ?とは別の、諦め、とも言えない
生きるため、というよりかはむしろ、
死なないための、方法?
といえば近いのかもしれない何かに。

なるための、なにかに、
近づく、
きっと、
それが、
わたしの理由の、ひとつだったんだと思う。

……ただし、
なってみたら、
それは──

ひかりでもなかったし、
やさしさでもなかった。

やさしく包まれる「夜のタクシー」など、
どこにもなかった。

読んできた あの本のなかの、
やわらかな沈黙の器は、
わたしが乗り込んだとたん、

排水溝の奥にねじこまれた。

地下に沈んで、
ざわざわと脚をうごかす、
無名の虫になった。

その姿のわたしは、
どこかきっとゴキブリに似ていた。

這う。
すべる。
かすれる。
とまる。
かいめつ、する。
また、はう。

ラジオも、
革のシートも、
夜のまばたきも、
すべて、
滴り落ちた都市の唾液にみえた。

まるで、
わたしは、

ぬめった背中で街を読む、
油のうえを反射する
意味のないかたちだった。

ハンドルに貼りつく汗は、
もう、わたしの皮膚じゃない。
ぺたぺたと剥がれ、
その裏に、
わたしの名前も剥がれていた。

それでも
わたしは
這った。

──タクシーではなく、
這うものそのものとして、
わたしは走った。

すくなくとも、
そのときだけは、
存在の端っこに触れている気がした。

つぶれた脚で、
何かの名残を、
舐めながら。



スマートフォンの、
アプリが鳴る。
タップする。
ナビが動く。
わたしも動く。

配車アプリのアルゴリズムが差し出す客に、
わたしは「どうぞ」と言いながら、
ドアを一つ開け、後部座席に乗せる。

軋みが鳴り、
どこかの裂けめが応える。

判断はない。
ただ、反応があるだけ。

ドアが閉まった音を聞きながら、
アプリのスライドバーを右に送り、乗車を確定する。

能動のように見える、受け身。

アプリ上に目的地と経路が同時に表示され、ナビが案内を始める。


目印は崩れ、
言葉は溶け、
意味は剥がれ落ちる。

目的地に着くと、アプリの画面が切り替わり、
「降車完了」をタップし、
客を下ろして終わる。

街のなかに、
投げ込まれたわたしは、
流れの中で、
あたかも流れそのもののふりをする。

能動の仮面をつけ、
受け身の、だらしなく垂れた皮膚をこすり、

乗せる、運ぶ、という情けないくらいの身体の動作だけが、残る。けれどそれすら、あらかじめ仕組まれたプロトコルの、渇いた反応。
無名の指先が差し出す「自由」の中で、
わたしは、すすんで首輪を選び、付けている。


そんな、わたしが、
これから書きはじめるのは、ひどく、のっぺりとした平坦なはなしで、

ひくい声でしか言えない、
でも、ひどく長く続いてしまう、はなし、

けれど、

ときどき誰かが「大丈夫」と言って、
でも結局、だれも残らないはなし、

からっぽの音が、
じっとだけ、していて、
ひとりのまま、いつまでも繰り返される、
そんな、はなしのなかの、

きれいはきたない
きたないはきれいの正気を保つためのはなし。
それから、また、

アプリが鳴る。
タップする。
ナビが動く。
わたしも動く

わたしは、ようやく気づいた。
「他」にやることがないと。ということに。
「他」にやれることがないと。ということに。
気づいてから、動いた、数ヶ月まえから、
タクシーのハンドルを握った。

タクシーはゴキブリに似ていた、
街の至る所、ゴキブリみたいに路地を這っていて、
自分ではない誰かのなにかしらの悪意や善意を混じらせて動いて、
その動きはとても、単調な生き物のように見えた。

飛び立つこともなく、飛びつくこともない、
飛び立つための翅はとうの昔に失ってしまったように、
ただ、ずるずると、しぶとく、街中の地面の、皮膚のようなものの上を、
なかば無意味になってしまった動きを反復しながら、それでも張りつづけている。

そして、そうして這い続けるその姿が、
わたし自身の何かに、ひどく似ているような気がして。

わたしはタクシーに乗ることにした、
この車(トヨタ・コンフォート)も、きっとゴキブリを模して作られたんだと思った。
黒く、平べったく、油じみた光を宿して。
何世代も、ひっそりと血を換えながら、
まだ街の皮膚をかじるようにして、しぶとく走っている。

まるで、それが、わたしの生存そのものだと言わんばかりに。

──街は、遠くで、ひっそりと雨を落としていた。
濁った空気が、ゆっくりと沈んでいく。
ひとの声も、車の音も、
どこか遠い水の底でかすかにひらめくように聞こえた。
わたしは、ただひとり、座席の上で、
息を潜め、じっと、じっとしていた。


アプリが鳴る。(評価4.87)
タップする。
ナビが動く。
わたしも動く

配車アプリのアルゴリズムが差し出す客に、
わたしは「どうぞ」と言いながら、
ドアを一つ開け、後部座席に客(評価4.87)を乗せる。

後ろから、訪日観光客(評価4.87)が笑いながら、
わたしに語りかけてきた、
「ハウアーユー?」。
その声が、わたしの言葉の力を試しているように思える。わたしは、日本語しか、はなせない。
わたしは、日本語しか学んでこなかった。
いや──日本語ですら、もはや充分には、はなせていない。

さいきんでは、それを 
「英弱」って いうらしい。

…えいじゃく。

なんて、
やさしい のに いやな 言葉。

皮膚に 貼られた
しずかな 診断書、みたい。

言語のちからが たりてない。
ってことらしい。

それは 一種の、

無自覚な文明的軽蔑を込めて、与えられた、
わたしの、

「言語の骨組みに貼られた仮の病名」みたいなもの。

つまりいうと それは、
グローバリズムという名の下に漂流する、
いくつかの老廃物たちのひとつとして、
わたしの 存在が、
あるいは象徴的に、あるいは物理的に、
……排泄された、っていうこと。

それがどういう意味か、わたしには、
 正確にはわからない。
でも、そう書いてある感じがした。

ついでに わたしは、
一昔まえに出回っていた──
軽やかな診断名、
「コミュ症」にも あてはまるらしい。


あれもきっと、
社会全体が誰かを軽く突き放すために
用意した、
ひらがなまじりの、
やさしい呪詛だった。


喋るのが にがて。
ひとといると どこを見たらいいか わからない。
だれかと目が合うと、
脳のなかが、白くなる。

えいじゃくで、
こみゅしょうで、
そういうひと、
わたし。

グローバル系 げんご不能、
にちじょう的社会不適応、
要するに、
対話に むいていない。

人と話すのが へたくそで、
英語もだめで、
日本語すら すぐ、どこかへ逃げていく。

だから、
ちょうどよかった。

うしろに ひとが乗っても、
だいたい、黙ってても 怒られない。

「こんにちは」
「どこまで」
「ありがとうございました」

それくらいの言葉だけで、
だいたい一日が 終わる。

それくらいの言葉なら、
なんとか できる。

あとは、
静かに 運ぶだけ。
感情のなれの果て、
とか、
沈黙のぬけがら、
とか、
そういうものを、
うしろに乗せて、
ゆっくり走るだけ。

それくらいなら、
たぶん、できる。

できるふり、くらいなら、
ずっと前から、してるから。



「How are you.???」評価4.87が、わたしにたずねる。

その評価4.87のこえが、わたしの

耳のなかでほどけて、音だけが問いかける。
けれど、いつもどおり 意味は返ってこない。

言葉の奥にひそむ無意識が、
つながれたまま、
何度も何度も同じことをくり返している。

わたしは、なんと答えればいいの。
せいかいは、
アイムファイン?
アイムファインで合ってる?ほんとうに?
どんなトーンで?アイムファイン?
げんきそうに?口角をあげる?
アイムファインって? でも、
ほんとうにファイン?
わたしは、ファインなの?
わたしは、ファインなの?。と。

「…アイムファイン。」

ドアが閉まった音を聞きながら、アプリのスライドバーを右に送り、乗車を確定する。

…アイムファイン。




口にした瞬間、胸の奥が、ちょっとむずむずする。
言葉が、自分の口を通り過ぎるまでのあいだだけ、
たしかにわたしのものだったのに、
吐き出された途端、まるで借り物みたいな顔をする。

アプリ上に目的地と経路が同時に表示され、ナビが案内を始める。

ファインという痕跡。ファインという傷あと、
ファイン・エンドゥ、そして次は、スマイル?
ファインエンドゥ。スマイル。グッド。
スマイル。スマイル。ぐっど、スマイル。
スマイルという褥瘡。
笑顔という表象の廃墟。ほほえみを被って、
「あれ、これでよかったっけ?」
みたいな気持ちになる。
誰も気づかないし、誰も困らない。けれど、
なんだか、首の後ろあたりが熱くなる。
ぐっど。ぐっど。ぐっど。
グッド、という残響。
本当は、ファインじゃないかもしれない。
グッドじゃないかもしれない。
でも、ファインと言わなきゃいけないような空気で。
それでいて、言ったあとにちょっと後悔する。
かといって、言わないともっと気まずくなる。
How are you.
はうあーゆー。はうあーーーゆー。
How are you.
だから、結局、
むずがゆさを抱えたまま、笑っている。
ファイン、って言ったわたしに、
どこかで少しがっかりしながら。
How àяè уóυ。
はうああゆー。
それを聞くたびに、
わたしの言葉の皮膚が、めりめりと剥がれる。
ぺりぺり。崩れる。ぺらぺらの、
さんきゅー、せんきゅー。あれ?頭音は、「さ」?それとも「せ」?
剥がれて、剥がれて、ひりひり痛む。
わたしの肌理の下で、
ぱたぱた無意識がうごめいている。

せんきゅー、さんきゅー。
反復強迫のように、じりじり、ひりひり、と焼けて、
笑ったまま、黙る。
耳の裏で、誰かがまた喋ってる。

言語のまなざし、無意味な儀式。
わたしを捕らえ、わたしが捕らえ、

せんきゅー、さんきゅー。

空っぽの空洞のなかへ
言葉がわたしを走らせる。

繋がって、ちぎれて、
また別のところに流れ込み、
カラカラ、からっぽの音を立てる。

その音は、わたしのなかで、
外部のなかで、
場所も名前も変えながら、
歯車の隙間に油のように滲み込み、
機械のように、雲のように、逃げていく。

そうこうしてるうち、
目的地に着くと、アプリの画面が切り替わり、
「降車完了」をタップして終わる。


どこまでも、逃げていくのは、
それは、わたしが、
この正解のない国に産まれた
せい?
いや、もはや「せい」でも「国」でもない。

透明な亀裂のなかで、
どこまでも脱走していくせい。

夏空の白い雲はわたしの皮膚と繋がり、
油と歯車と雲が、
みえない流れのなかで絡まり、
切断され、また走り出す。

正解のない国は、
せいぜい一つの仮の地図で、
流れは、まだ名づけられないまま、
どこでもなく、どこまでも、でも、

でも?

アプリが鳴る。(トゥルルルン、トゥルルルン)
(評価4.79)
タップする。
ナビが動く。
わたしも動く。

信号が赤になる。
ブレーキを踏む。
窓の外で、誰かが笑う。
窓の中で、わたしは黙る。

1日13.5時間、
タクシーのなかの、わたし。
この、ひどく狭いせかいのなかにいるせい?

せい、せい、セイ。

なにもかも、
また他責にして、
そのくせ、笑う。
ほら、こんな狭いせかいしか、持てなかった。
タクシーのなか、油じみたハンドルのうえ、
せい、せい、セイ。
ろくでもない、悪いくせ。

いや、違う。

欠落がわたしを選び、
わたしが欠落を育て、
実ろうとした果実が腐り、
汚汁が垂れ、
呻きが、生まれた、

けっきょく、ぜんぶ、
わたしの、せい。

はじめは、みんな、大丈夫がる。

やさしく、ほほえむ。

でも、やっぱり
加害が深まると、
離れてく。

どれも、だれも、
どの理由も、選べず。

わたしがのこる。
のこされた、幼い夜の闇で、泣けず、
虫の声を数えていた、その指先のまま、
息を詰めて、
いまも、じっと、じっと。

じっとだけ、していて。

はじめは、みんな、大丈夫がる。

やさしく、ほほえむ。

でも、やっぱり
被害が深まると、
離れてく。

どれも、だれも、
どの理由も、選べず。

わたしだけがのこる。

のこされた、幼い夜の闇で、泣けず、
虫の声を数えていた、その指先のまま、
息を詰めて、
いまも、じっと、じっと。

じっとだけ、していて、
それだけでいいから。
ひとり残って、それから。

感情のやりとりは、わからないまま。

だから、傷つくとき、くり返し、くり返し。
擬似的な体温だけで、空間をとじて。
閉じて、塞いで、埋めて、また塞いで。

感情のやりとりは、わからない。

だから、傷つくとき、くり返し、くり返し。
擬似的な体温だけで、空間をとじて。
閉じて、塞いで、埋めて、また塞いで。

そのまま いつのまにか 身についた ふるまいが
無意識に 習性になり しぐさになり。
張りついた 剥がれない 皮膚のような もの
になって、
でも完全な皮膚ってわけじゃない
それはきたない、がさがさの、瘡蓋のような、出しきれなかった、いろんな感情の、澱が、まじった、きったないかさぶた。
剥がせば 血がにじむ けど、固まる前にまた剥がしたくなる。

無意識の防御 未完の治癒
習い性(しょう)の瘡蓋が
じゅくじゅく 痒く イタク うずく
これまでも いまも これからも

まるで、それが、わたしの生存そのものだと言わんばかりに。

──雨は、いつのまにか止んでいた。
座席の上で、わたしの呼吸だけが、やけに大きく響く。
皮膚の下の血の流れが、遠くで、ざわめいている。
その音に耳を澄ましながら、
ただ、じっとしていた。

わたしは、誰にも気づかれず、
かといって、完全にひとりぼっちというわけでもない。
人の視界のはしっこを、ぬるっとすり抜け、
うっかりと目が合えば、すぐに視線を下げる。

名前も、感情も、声も。
それはもう、ただのしるしみたいなもので、
ほとんど必要がない。いみがない。
どれも、煩わしいくらい無気力で、
ただ動くことだけが、
。「生きていてもいいんだ」と思える理由になりそうだったから、

、ごきぶりにのる、のって、なって

動くことだけが、
わたしとみなして良さそうだったから、
この街のすきまみたいな場所で、
ワサワサと、
ただ動くことだけが、わたしが出した、
ぎりぎりの肯定だったりする。

「生きる」という実感や意味は、薄れてしまっても、
それでもせめて、動いていることを理由に、
生の端っこにしがみついている。

ことにしておきたかった。
ことにしておきたかった?

同じことを繰り返しながら、⟦ ひ♒︎゛゜/ゑ ⸨⸩ み」┅ 𓂀 みたいに、

壊れた記号のように動く。きっと、
ほんとうにわたしに備わる機能なんて、
それくらい。

外の水の流れに揺られながら、
揺らされながら、
わたしは、ただ流れる。
流される。
流れていく。
そして、そのふりをしているときだけ、かろうじて生きている。そこに実感はない。
じっかん?なにそれ?必要?。
うん。たぶん。きっと、ぜんぶ、
みんなしているし。
能動のふりを?、選び取ったふり。を?
仮象、選択の演劇の?
その薄い嘘のなかで、?

うん。

うん?ほんとうに?

うん。そうすることで、わたしはようやく、
この世界のどこかに触れている気がする。の。
の? 開かれた裂け目のうちに、
かすかな存在証明を錯覚することができる。の。
の? それで?
そのふりが剥がれれば、
わたしも一緒に剥がれる。
そう。
粘着のないシールみたいに。
意外と、ぺりぺりと、あっけない音を立てて。

多くの人が選ぶことで自由になれると信じているし、わたしもまた、そのふりをする。
うん、そう。
選び取るという仕草で、
けれど
──規範、言語、制度、環境、時間、恐怖、期待──

みんなして、ひそひそ相談しながら、わたしの選択にちゃっかり混ざり込む。
おかげで、わたしの意志の輪郭なんて、
すぐにぼやけてしまう。
それでも私は、スーパーの棚の前で、
迷いながら、決めたふりをしてレジに並ぶ。

ひきょう もの。

環境にやさしいとか健康的、
安心、
安全、
コスパがいい。とか
ほんとうはどれだっていいのに、
どうでもいいのに。

決めたふりをしてレジに並ぶ。
並んで?

決めたふりをして、ドアを開ける。
また鳴る。
鳴って、取った。
配車アプリの アルゴリズムが差し出す客に、
わたしは「どうぞ」と言いながら、

ドアを一つ開け、後部座席に、

客(評価4.79)を乗せる。

仲睦まじい男女(評価4.79)だった。それが、長い爪先でカタカタという音、を立てながらスマホを見せ合い、
「これ見て」「うちの子」「彼氏が」「みんなで」「幸せそうでしょ」と
見せ合うふたり(評価4.79)のカタカタと爪が鳴る画面のなかでは笑顔があふれ、数が増え、タグがついて、なめらかにカタカタと消費されているのだとおもう。きっと。

けれど わたしのなかでは少しちがう音、
画面の笑顔が あん あん と
ぬめった音をたてて 列をなして、
箱がひらく まぶたがひらく
指先が 這い出し 数が あふれ出す


幸福の形をしたものが 白い膜をかぶり
こちらを なめるように こちらを 嗅ぐように
こちらの奥へ 侵入してくる。



クリックで 量産された「すごく素敵」な情愛が
タイムラインで 熟れすぎた「いい感じ」の笑顔が
“しあわせ”を ゆっくりと 舐めさせる

かぞく、こいびと、こども、しごと
チーム、なかま、しゅみ?
素人もの、拘束/監禁もの、野外/露出もの?
まなざしが 数える 増幅する
いかにも 甘やかで、いやらしい、幸福の形が、
たくさんの愛のかたちが 羞恥を脱ぎ捨て
白い膜をかぶり こちらを凝視する
——こちらを なめるように
——ぬめった息を吐きかけるように

あん ぁん あん と
雰囲気が 視線に跨り
他者の欲望に 射精させるための
小さな、小さな わたしという劇場
日常という劇場 せいかつという劇場
木漏れ日、自然光、ひかりの屈折、の
劇場 げきじょう?その
舞台で、

しあわせに見える 画角で
げんじつをぼやかす 照明で
視姦のための愛を 絡めあい
演者たちは 審美された射精感を
甘く 感じている
粘った唾液の匂いを 嗅ぎ合いながら
それを
誰も 止めない 止める理由もない
誰も 始まりの合図を覚えていない
箱はひらき
透明な指先が つぎの中身に触れ
スクリーン越しの自慰は なおも続く

粘つく空気が 骨の奥まで這いのぼり
肉の隙間で 濡れ、脈打つ
汗と皮脂が混ざった なまぬるい臭いが
背中を伝い落ちる
しあわせに見せながら
笑いながら
聖性のふりをして
悦楽の膿を だれもが垂らし去っていく

舞台化された自己愛の デジタル露出
——笑っている
——笑いながら 濡れている
なぜ、そういとも容易く笑えるの?

わたしというおまえは、
それに、耐えられるの?

わたしが吐き出した、
この獣じみた塊を、
自分の背中に括りつけたまま、
わたしは、生きられるの?

知れない、追いつかない理解が、
笑いを、その顔に貼りつけるの。
その口の奥で、鉄の味が、しないの?

そもそも、
人類でいちばん最初に笑ったのは? 

、だれ?

きっと、類人猿。
その群れの中で、危険のない場面に、
フッ、フッ、と呼気を漏らした個体が、その原型。

チンパンジーやボノボでさえ、いまも「笑うような声」を出すのに、
人間であるわたしが笑えないのは、

なぜ?

わからない。けど、それは、いや。
いやだから、いま、フッ、フッ、と呼気を漏らしてみる。

フッ、フッ。

けど。

けど、その無頓着な裸体に、
吐き気がする。やっぱり、吐き気がする。

粘つく汗のように、幸福の膜が フッ、フッ。
こちらの細胞に入り込み、
骨の奥でざわめき、
肉の内側で、脈打つ。

フッ、フッ。

デジタルの触れ合いが──
カタカタと爪を立て
フッ、フッ。
のばされた触手が
汚く 絡み合い
しあわせの皮膜を 突き破り
わたしの細胞に
侵入し
奥で爆ぜ
骨髄に 泡を立て
内臓の奥で
ぐにゃりと
くねる
くねる
ぐねぐね
くねる
フッ、フッ。
わたしたちは
その人たちの
なにを
見せられているのか
見たくもないものを カタカタと見て
知らなくていいことまで 知って

そこに わたしの快楽が宿っているのか?
他者の幸せに触れ気持ちいいのか?
わたしは 昂ぶっているのか?
コーフンしているの、か?
視界の裏側で
触れあい
くねり合いながら
呻きながら
うごめき
問いを吐き続ける

フッ、フッ。
なにを/なにを/なにを
見せられている?
見ている?

見ている?
見ているのはだれ?かれら、わたし、あなた?

あなた。
そうあなた。そこにいるでしょ?
そこでこちらを見ているでしょ?
あなた。
あなた。
あなたはわたしのなにを見せられているの。
わたしが吐き出す言葉の自慰、わたしがにしくったくそと、恥じらい、られつするわたしという、もじ。
フッ、フッ。

しあわせの名をかぶせられた、あなたと、
わたし。
かのじょ。
かれら。
この、淫猥な/孤独な/廃墟で。

あん ぁん あん。

カタカタ カタ

——これは、聖なる汚辱。
——これは、燃え残った肉片。

フッ、フッ。

あん ぁん あん。

カタカタ カタ

あん ぁん フッ、フッ。
あん。
カタカタ。

ひとのしあわせ。
わたしは、
しあわせを、こんなふうに受け取って、
それにさえ酔っている。と思いながら、
だいなしにする。

フッ、フッ。

わたしに残ったのは、射精後の、
だるさと、浅い後悔みたいな甘さ。

目的地に着くと、アプリの画面が切り替わり、
「降車完了」をタップし評価(⭐︎5)づけて終わる。


わたしのなか、ありとあらゆる他者性がしずかに、ねちゃねちゃに浸潤し、意志という仮構は、いつのまにかふやけて解体される。
まるで、
雨の路上にみつけた、ティッシュペーパーみたいに。
それは、意志の脱臼であって、意志の残骸である気がする。

では、わたしはなに。

わたしは、なに?

わたしは無数の他人の集まりでできている。
そのざわめきが、わたしの意志のような顔をして、ただ選び続けている。

無数の力が通り過ぎ、染み込み、抜け落ちていく、わたしはその通路。

わたしはわたしのものではない。
わたしは、わたしの中を通り過ぎるものたちの、たまたまの通り道にすぎない。

ひび割れの真ん中で、いくつもの声を継ぎはぎにして、ようやくわたしはできあがる。

アプリがピコンと鳴り、アルゴリズムが客を差し出し、わたしを選別する。
そのたびに、「人間らしさ?」のようなかけらを集め、もちかえったりして、じろじろ眺め、それ自体を、疑ったりする。

「人間らしいでしょう?」と、どこか気まずげに見せ合いながら、
厄介なぎこちなさで、ギコギコと軋むように動く人をみて、みつめて、

そういう人たちにとって、わたしはどう映っているのか。を考えたり、
おそらく、「あれはあれで、わりと人間っぽいじゃないか」なんて、妙な安心材料にされているのだろう。と思う、わたしにはわからない言語で。

いったい人間とは?そんなありきたりな設問を投げ返し、どっからどこまでを人間というのだろう?とか
皮膚の内側か?
言葉の果てか?
臓腑のにおいか。とか、
それとも、あらかじめ剥がされ、うち捨てられた何かの骸(むくろ)までを、
まだ人間と呼ぶのか。と、
ひとりでにうごめく欲望の塊をみつめる。
それは思考を装う反射。反射的に行われる問い、
いや、そもそも呼ぶことが、ひとをヒトにしてしまったのではないの?
どこまで、どこまでが、人間であり、そうじゃないの──。
あゝ。といつも、
あゝ。といつも、いつも。
それでもいつも扉を閉じたら、
センキューさよならグッバイ。
また新たな差延が鳴る。
裂け目が応答する。

被投されたわたしは、流れのなかで、流れそのものを装う。

わたしは、被拘束された問い。で
反復される無根拠性。で
無効な選択肢たちの残滓。なの。

わたしは、名指されていない徴候。なの。

かろうじて、構造の盲点で、存在の痕跡を錯覚する。だけなの、
だから、
わたしは、問いのかたちで、問いを問う。の。

Hoω àяè уóυ?

それに答える代わりに、スマイル。グッド。
ほほえんで。わたしは微笑みに寄せて、誰にも見えない方向に親指を立てる。
親指を立てて、
バグのような仕草を見せて、世界の処理を少しだけ止めてみる。

スマイル。グッド。って、
親指を垂直に立てて、 グッド、グッド。ぐっ ぐっ ぐっとって、
すまいる する

するの すまいる
すまいる ぐっどって
わらいながら だれもいないほうへ
おやゆびを ねじねじにねじり
のこるの ばぐ が
のこったばぐが
せかいの 処理けいを
とめるの
ほんのすうびょう、
とめる
とまるの
……とまったの たぶん
たしかに せかいが
のいずを はいて た
はいた
はいた が
だれも とわぬ
とわぬこの よどみ を
とわぬ
こんな小さな仕草で、わたしの、世界は、すぐに止まる。 の。

止まって。
空気が、澱む。
しばらくすると、また動き出す、後ろ向きに戻っていく。おしもどされる もどり
もどりへ もとへ
ものへ
やわらかく
ふきつな わのなか
さかさに ふって、またふる
いき をする
するたびに こえは
でたそばから かこになる
かこになったら
おくに ぶらさがる
ぶらさがって
ぶらさがったら、
おう
おうて また こえを うむ
うんで、とぎれ とけ はじまる
戻り、戻り、もとの、もの。 に。
遠くで、声がほどける。

押し戻される声で、
そのあいだで、息がひとつ、落ちる、
漂う声。
口が、またそっと、声を出す。

もどり
もどりへ
もとへ
ものへ

といか
こたえか
わからず
わからず
空気が、薄くなって、
ひらいて、途切れて、
また、始まる。
戻り、もとの、もの。
どこまでが、問いで
どこまでが、答えか
わからないまま、
つぶやいてしまう。

声のかたちが、やわらかくほどけて
渦に、溶けて、
くるくると、
まかれて、まきこまれながら、まきもどされて
まわって、まわって、さかさまに、さかまささの、
まさかさに

いなわとこ
きうのるあ
にこもれだ
たま とまらほ

るみて
とけだし
少を 理処の世てし
見を 作しなう
ぐば

るて立
を指親に
う方向いな
え見も誰て
せ寄に
笑微はしたわ

笑微はしたの

グバ

グバ
グバグバの
るて立を指親にう方向いなえ見も誰てせ寄に笑微はしたわ

したわ
たしかに、
でえほほ ドッグ ルイマス にり代るえ答にそれ

¿ υóу èяà ωoH
う問をちたかのいと でちたのいと はしたわ
したの
でえほほ
どっぐ るい ます
にり 代るえ こたえに それ

¿ υóу èяà ωoH

う問を
ちたかのいと
でちたのいと
はしたわ
したわ

もどる
とわぬ
よどむ
とまる
ばぐ

わたしは、う問をちたかのいと、問いを問う。

わたしは、問いのかたちで、問いを問う。

それが問いだと気づいたときには、
すでに答えの皮を被ってる。

すまいるする
すまいる ぐっど
 ルいマ グッド
どぐるいま、
ぐるいマ
まるいぐ
いぐるま

ほら、
どっぐ、どっぐ、どっぐ

どぐるいます
ドッグ ルイマス
ドッグ。
どっぐ ルイマス。

アイム、ファイン、ドッグ ルイマス。


わたしは つぶやいた。の。

それが たしかに、この場で、
わたしの声となって 
発せられた、ということに、
わたしは わずかばかりの安堵を覚える、ドッグ ルイマスとつぶやいて、

同時に その響きに、は、
きょうけん病のような、
可愛らしい姿とは 
まるで釣り合わない、
毒々しさ、てらいのない生の、剥き出しの重さが、
ずっしりと宿っていることに、
気がつくの。

いや、それは、可愛らしい、というより、
むしろ 人が安心するために貼りつけられた
薄い仮面のようなものが、
その言葉のまわりに いっとき残っていて、

それが 剥がれ落ちる、その瞬間に、
わたしの耳の奥で、
病みつかれたような 痙攣する音が、
ひそかに立ち上がってきて、

狂気に近い響きとして、
ドッグ ルイマス、ドッグ ルイマス、と、
なおも 繰り返し、
わたしを 巻き込んだの。

けれど ドッグ ルイマス。
そのあなたの響きそのものが、
これまでの わたしの思考のすべてであり、
そのすべてが、
 歩いてきた足音のようでもあるの、

ひとが 考え、歩き、
壊れ、

耳の奥で ひりつき、
声をなのり、
別のものの名を 名のり、

別のものの 名のなごり。をのこした。

それでも まだ、そこにいる。
ここに
ただ
ただ
いま──
どっぎ どぐ る
どどっぐ れいま るいま
どっぐ るいます
ドッグ ルイマス。

これが、
わたしの
純粋な、どっぐるいま、す、
「ドッグ・ルイマス」なの。

 



──つづく。
アプリ脱構──流し/停車の境界における介護タクシー:流動する存在論


あとがき

読んでくださり、ありがとうございます。
詩集を出すとか、偉そうに言っておいて、ずっと放ったらかしていました。ごめんなさい。
結局、詩集にはしません。しないでしょう。しないと思います。でも、書き溜めたものは、まあ、気が向いたらちびちび出していこうかな、と。

こんな駄文でも、期待してくださった方には、
なんだか申し訳ないような、でもまあ、こんなものですから、お許しください。

いまのところ、生きています。か?
だから、あなたも、なんとなくでも、生きていてくれたらいいなと思います。生きるのが面倒でなければ、生きていてはいかがでしょう。立派じゃなくても、ぐずぐずでも、同じように。生きていれば、そのうち退屈にも慣れるでしょう。

それではまた、どこかで。
ありがとう。